工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

建築資材の「進化」と流通の激変

建築資材の進化

昨今、建築資材の進化が著しい。
恐らくは今回のような建築に直接関わることが無いかぎり、そうした変化に気づかずに過ごしていたかも知れません。

新しい様々な金属素材(例えば、当工房の壁面はガルバリウム鋼板での施工)、化成素材(メラミン樹脂の化粧板、ポリカーボネートの多様な商品化など)、建築金物(ネジから機能金物まで)等々。
あるいはまた前回触れたルナファーザなどもそうした新素材の1つとカウントできるでしょう。

こうした様々なジャンルの素材の新規展開に加え、工具などの新製品展開もめざましいものがあります。

無論、こうした進化は、実は一方では伝統的な資材の衰退という問題と対になっていることであるとか、加えて伝統的工法の担い手が消えつつあるといったことなどとも裏側で深く関わっていることについては、私たちも自覚的であらねばと考えています。

これは、合理的、省資源、コストカットで、といった方向での進化であることは当然としましても、用いられ、作られる目的の建築物本来の価値を、より高めるものであれば良いのですが、必ずしもそうとは言い切れず、チープなもの、うわべを装うだけの、美しさとは逆方向のもの、そして耐久性の劣る方向に堕してしまいかねないものもあるでしょうから、選択には注意したいところです。
選択肢が増えた分だけ、施工者側としては、商品知識とともに、その開発意図まで深く理解する識見がより高く問われるということになります。

建築資材、流通の激変

またこれに関連し、流通の分野が激変していることは以前より見知っていた積もりですが、今回、様々な建築資材を購入することで、この分野の流通が想像以上に変貌していることに気づかされました。

旧来の流通スタイルで業務を維持発展させていくことは、守旧派のレッテルを背中に張り付け展開するようなもので、若手の施工業者などからは見向きもされぬようになり、発展どころか、業務縮小、あるいは自滅を覚悟してのものになってしまいかねない様相を呈しているのです。

先般、私がこの地域で起業して以降、一貫して世話になってきた建築資材販売店が廃業したので、慌てふためくという出来事がありました。
いわゆるどこの街にもある家庭用品なども扱う店舗などでは無く、建築関連の業者を顧客として幅広く商う、大きな店舗でした。
以前は静岡駅から数100mという好条件の立地にありましたが、10年ほど前、この地域の再開発で郊外へと移り、そして今年とうとう店を畳んでしまったというわけです

廃業を伝える公報の内容としては全般的な不景気ということを廃業の理由として挙げていたわけですが、もちろんそれだけでは無いでしょう。
建築資材も、今やわざわざ店舗に出向かずとも、ネットで釘1本から翌日にも入手できますし、リアルな店舗と較べても比較的安価だったりします。

あるいはまた、大規模に展開しているホームセンターがここ数年、扱う商品を大きく強化するという変容を示していることは、読者の方々も既にご存じのことと思います。
さらには、こうしたホームセンターの中には、新規の店舗業態での展開を始めるところが出てきています。
いずれも業者向け、プロ向けショップの性格を色濃くしているのが特徴です。
具体的に言えば、資材の分野がかつてでは考えられないほどに充実されて来ています。
その品揃えは圧倒的とも言える品種と、物にもよりますが、比較的廉価な価格設定といったあたりが共通しているようです。

ホームセンター店舗以前であれば、素人お断りの業者向け店舗でしか入手できないものが、ズラーッと並んでいて、それは壮観なものです。
ボルト1本からはじまり、箱単位での取り扱い。少量であれば、レジでカウントするのも面倒くさいためなのか、客自身が小さな伝票に商品名と数量を自己申告で記述し、それをレジで打ち込んでもらうという方式。

ありとあらゆるジャンルの資材が陳列され、他業種に疎い私などにも、大変興味深く見入ってしまうという品揃です。

こうなりますと、それまでの業者向けに特化した商いをしていたところは、経営的に大変な影響を受けることは火を見るより明らかです。

顧客とすれば、リアル店舗に出向き、顔を見せれば「○▽さん、今日はあなたが探してた□×が入荷したので、ちょっと見てみませんか」とか、
「この新商品、どう使えば良いの?」「これはねぇ、・・・」、「予算オーバーですか、じゃ、つけておきますから、また次回の支払いで・・・」などと、信頼関係を基に、良い関係が作り上げられていくわけです。

今や、無機質にダーッと並んだ商品棚から、目的のものを探しまくり、無口に商品を取り、商品知識も無いレジスタッフに、いちいち名前を語り、領収書を書いてもらい、店をあとにする。

余談ですが・・・私はウォルマートの配下に下って以降というもの、〈西友〉では一切買い物をしなくなりましたが、これは店舗の品揃え、ディスプレーが無機質で、いかに安価でも、買い物という行為に伴う欲望の発露が削がれ、全く楽しくなくなったからなのですね。
(昨年末、西武流通グループの中興の祖、堤清二氏が亡くなりましたが、これでもって1970〜80年代の日本の流通業を華やかに彩った西武の時代は、完全にオワリを告げたということで私は理解しています)

ただ、上述のホームセンターでのこうした新たな商品群の買い物は、小規模の個人店舗での買い物と較べれば、私のような守旧派であっても、その商品の陳列棚からの魅力あふれる訴求力には抗しがたく、楽しいという実感が伴うのは残念ながら事実です。

もはや、資本力のある大規模店舗の圧倒的な販売力の前には、私も、そして小規模個人商店も屈従するしかなさそうです。それが哀しいかな、時代の潮流というものであるようです。

さて、こうした流通業の変容は、ほとんどすべての商品群において同じようであるわけでして、むしろこうした建築資材の分野が1周遅れでやっとやってきたというところなのかもしれません。

経済的に解釈すれば、中小零細の流通業は、大資本の荒波の前に翻弄され、駆逐され、屈従させられてしまういう宿命なのかもしれませんが、個人的には何か虚しく、いよいよ社会の無機質化とともに、ある種の荒廃も進んでいくのだろうな、との思いがするのも偽れないところです。

それまでは、ネットでの通信販売が広く普及し、どんなものでも入手可能な時代になりつつあった状況下にあっても、私は建築資材、木工関連資材は、地域の専門店で入手するようにしていたわけです。
無論、単価的にはオンラインの方が安いと知っていたとしても、ダダーッと雪崩を打つかのように、そこに流れてしまっては、地域のリアル店舗の消滅は目に見えることですので、あえて留まったのでしたが、しかし現在はそうした牧歌的な考え、ウェットな思考は、まったく通用しないという砂漠のような状況の中に放り込まれてしまった感じです。

果たして木工の道具は?

ところで、こうした資材や道具の進化と流通の激変が押し寄せてきている中にあって、いわゆる大工道具はどうなのでしょう。

詳しく持論を展開するだけのデータを持ち合わせているわけでは無いのですが、言えることとしては、その多くの部類は、上述したような他の資材、道具と同じような状況下に置かれている一方、いわゆる伝統的で専門的な道具、ノコ、ノミ、カンナ、などは、一般の顧客や、叩き大工には不要なものであり、そうした流通には載りようも無く、従来の流通がかろうじて生き存えていると思われます。

ただこれらも、こうした専門職の高齢化、職人のなり手の減少、店主の高齢化などという、今日的課題から自由ではあり得ず、地域での入手はいよいよ困難な状況に立ち入っていくことは避けがたいのかも知れません。

普段、無意識に、安易に使っているこうした日本の伝統的な大工道具ですが、実は間違いなく世界に誇るべきものなのです。
道具を巡る周辺の環境が激変する中、より意識的にこうした良質で高度な道具を積極的に入手し、仕込み、積極的に制作現場で使っていきたいものです。

昨今、こうした日本の道具は海外でその優秀さが評価され、使われているようでして、日本の職人がこれらを安易に身捨てるならば、製造、あるいは販売業の人たちは、日本の職人に三下り半を突きつけ、海外へと需要を求め、移転して仕舞いかねませんね。

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  • ますます木の手仕事が貴重です。本や雑誌でこのところ目にするスタジオムンバイの行き方を読んで生命と産業経済の持続の基本的な営為を身失わない姿が新鮮でした。腕利き職人と設計・工房運営者一体で日本の一時期の工務姿を見ていた世代にはまだ可能性があると感じます。一人でじゃどうにも半人工、二人なら3人工です。現状を脱出するには現場の思いを語り出し合う場、サミットが必要なんだち。

    • 〈スタジオ・ムンバイ〉が話題になった際、想起させられたのが、レーモンド建築事務所に在席していた頃、インドに派遣されたジョージ・ナカシマのことでした。
      詳しい話しはともかくも、その後のナカシマの木工人生に深く関わっていくような、深い精神性を獲得する場としてあったことは疑いないようです。

      インドにおけるモノ作りの現場は豊かな手工芸が息づき、それらが地域の人々の生活に深く関わり、全体の調和が保たれるという、いわば前近代的な豊かさがあったからなのだろうと思いますが、

      そこに、伝統的な建築手法と、モダンな建築手法双方を実践的に学んだ類い希なオルガナイザー的な力をも持つビジョイ・ジェイン氏が新たな風を吹き込み、そこから産み出される近代建築が失ってきた本来の美しさ、調和が持つ力というものが、混沌とする建築界に衝撃を与えた、といった受け取り方をしていますが、

      やはり日本もインドとは大きく異なるとはいえ、アジア的なモノ作りの系譜をまだまだ持っていますので、近代を突っ走って来たことでのデッドロックに遭遇している今、いわば日本の古来から連綿と伝えられてきている工芸的技法、思考というものを再定義し、枯渇させる前に持ちうるポテンシャルを再確認した方が良いのかも知れませんね。

      まだまだ間に合うはずです。

  • 今の技術教育は職人の仕事場へ取材に行き、頭の良い人が変纂し教科を作成した結果で知識楽歴優先。へたくそが表通りをよたっていますね。

    親方筋をもたず、先達のいい仕事を見えていない御人は技梨でおしまい。訓練校でて作家気取り。相伝の場を知らず、叩かれず、怒られないままおしまい。

    明治からずっとパクリ教育でおざなり。手仕事が学卒に左右されて変質してきましたので、よくよく見定めることが肝要。分かれ道と覚悟して順處していきませう。

    • ABEさんの問題意識は共有したいと思いますね。
      ご指摘のように、この分野の公的テキストの著述、編纂が、必ずしも現場で携わる人に依るものでは無く、物書きに依存している問題も確かにあるかもしれません(技術書特有の問題)。
      これは、一部、実践者(木工職人のキャリア)に託されるべき課題であるでしょうし、また実践者もそうした公的な事業(教科書著述を含む)に関わる能力、才覚が問われるということでもありますし、社会の側もある種のヒエラルキーから脱する意識改革が必要とされる問題でもあるでしょう。

      明治以降、日本の近代化の内実(近代化過程におけるモノ作り現場の社会的な位置づけ、特に教育カリキュラムにおけるそれら)が問われているということにもなりますね。

      職人が、正当に社会的に包摂され、また社会的責任のある職域として自覚できないようであれば、日本社会の伝統的な美しい佇まいは失われるでしょうし、その社会はいびつなものになっていくでしょうね。

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