工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

今あらためて「柳宗悦」の言説を

ソウル、イルミン美術館(「東亜日報」、旧社屋)で《文化的記憶 柳宗悦が発見した朝鮮と日本》という企画展が開催されているようだ(「朝日新聞」12/02夕刊)。
新聞リードのところを引用する。

日本人として朝鮮の美や文化を愛し、戦前、王宮正門「光化門」を取り壊そうとした朝鮮総督府に異議を唱えたことなどで知られる民芸運動の先駆者、柳宗悦の生涯と作品を紹介する韓国では初めての本格的企画展がソウルで始まった。朝鮮の美を「悲哀の美」としたことから韓国では柳に否定的な見方があったが、功績を再評価し、韓国人の手で新たな「柳像」探ろうとする試みだ。

柳宗悦が韓国国内にあってどのような評価がされているのかについてその詳細を知る立場にないのだが、本企画展を日本側からサポートしている新聞社の記事なので、概ね引用のようなところなのだろうと思う。
これは韓国人一般の日本と日本人へのある種のバイアスの掛かった視座を背景とするところから、柳もまた免れなかったということがあるのかもしれないし、柳による朝鮮の陶芸に代表される美術工芸品への「悲哀の美」という定義も、朝鮮人から批判されても仕方がない「要素」(いわゆる「植民地史観」から抜け出ていないという)を孕んでいなかったとも言い切れないだろう。
無論1910年代という時代背景の中での言説という制約抜きに評価することもできないということもまた事実だろう。
いずれにしても日本、朝鮮の関係史を語るうえで欠かすことのできない人物であり、業績であったと言うことだけは確かなことだ。
ボクもこの現在の仕事に打ち込むようになった前後から、柳宗悦の著書のいくつかを読み進めたこともあったが、これがなかなか難解、難渋であり、仏教哲学から説き起こす手法でのその思想哲学を解読するには浅学過ぎるものだった。
しかし、にもかかわらず柳の言説に深く惹かれるのは「民芸運動」の提唱者であり、実質的にも運動の指導者であったということに留まらず、やはり「日朝関係史」に深く刻み込まれている「柳像」からのものであることは少し書き留めておきたい。


1910年の「韓国併合」をもって日本の植民地下におかれた朝鮮では1945年の日本の敗戦に至るまで様々な形での「民族自立」「独立運動」が展開されたが、その中でも最も激しく闘われたのが「三・一独立運動」だった。
朝鮮総督府は日本からの軍隊派遣を得て徹底した武力弾圧で臨み平定したが、日本国内ではメディアはもちろんのこと、知識人の圧倒的多数が植民地史観から、単なる「暴徒」といった捉え方で終始する中、ひとり柳宗悦だけは「朝鮮に就て経験あり知識ある人々の思想が殆ど何等の賢さもなく深みもなく又温みもないのを知って、余は隣邦人の為に屡(しばしば)涙ぐんだ」と、当時の『読売新聞』に「朝鮮人を想ふ」として5回にわたるエッセーを記し、日本の対朝鮮政策への徹底批判を展開したのだった。
この「朝鮮民族の自由と独立」を熱く語る柳の言説に接近することなくして、美術工芸への真の理解もまた閉ざされてしまうのではないのだろうか。
今回のソウルでの企画展を通し、美術工芸分野における日朝関係史にあらためて光を当て、これからの北東アジアにおける美術工芸の在り方を模索していく契機になることを期待したい。
最後に関連して浅川巧(1981-1931)という人物についても少し触れておきたい。
朝鮮統治下、朝鮮の山の緑化を進めながら、一方で朝鮮の工芸の美を発見し、柳宗悦に大きな示唆を与えたと言われる人だ。(彼がゐなかったら朝鮮に対する私の仕事は其半をも成し得なかった」 『工芸』31年5月号)
当時朝鮮では植民者、日本人へは怨嗟の目で見られているなかにあって浅川は貧しい学生を援助したり、達者な朝鮮語を操りながら朝鮮の伝統服チョゴリ・パジを着用するなどの同化ぶりで、ついには柳とともに「朝鮮民族美術館」を設立する。
42歳で朝鮮の地に埋葬されるときも、多くの朝鮮人に担がれ運ばれていったと言われるほどに、朝鮮人を愛し、愛された希有な日本人だった。
また巧は『朝鮮の膳』を著すなど、朝鮮の木工芸へも魅入られ研究している。
この巧の兄、伯教(のりたか)は日本統治下の朝鮮で高麗青磁の復活のために尽力し「朝鮮陶磁器の神様」といわれるほどの人物。
巧の長女園絵は柳が設立した日本民芸館に所属して柳の事業を助けた。
他国との交流、国際化などという事業も、決して大文字で書かれるようなものだけではなく、実はこうした他国、隣国への個人の思いと、身を賭した理解と研究といったことなどが深く強い絆になるのだという実証を示してくれていると言えるだろう。
〔追補〕06/02/03
今参議院で集中審議され改悪されようとしている「教育基本法」は、南原繁、矢内原忠雄などによって骨子が作られたことはよく知られたところ。同様にまた戦後教育政策の基本策定を担ったのは「教育刷新委員会」という機関だがこの初代の委員長は安部能成という哲学思想家(元文相)。
浅川巧と親しく交流していたこの安部能成は巧の臨終に立ち会い、次のように業績を讃えあまりの若さでの死去を嘆く追悼文を寄せている。
「かういふ人は、よい人といふばかりでなく、えらい人である。かういふ人の存在は、人間の生活を頼もしくする。かういふ人の喪失が、朝鮮の為に大なる損失であることはいふまでもないが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない」
*参考
一民美術館(イルミン美術館)
日本民芸館
「三・一運動」直後の柳宗悦の新聞記事
朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯
*関連過去記事
デザインソース
アーツ・アンド・クラフツと日本

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