無垢の板材で椅子の座を作る場合に苦労するのが「座刳り」だが、その切削手法は様々。
ボクの場合は加工プロセスの8割ほどを手鉋に依存している。
手鉋など使わずにやってしまう人も少なくないのかも知れない。
フィニッシュで望むべき加工精度、切削肌が出せれば、畢竟その手法は何でも構わないとボクは思っている。
鉋での切削だから上級、高度だなどとは決して思わないことだ。
ではなぜボクが手鉋でシコシコと削るのかといえば、こうしたプロセスに木工の真髄を対象化させ、ストイックに構えているからだ、などと言いたいところだが、実は残念だがそうでもない。
つまるところ、手鉋による加工の方が、良い切削肌が容易に求められるからなのである。
確かに手鉋での切削は過酷な労働であり、腰や、肩への負担は想像を超えるものがある。
しかし、恐らくはいかに3次元のNCルーターでの倣い切削で高精度に削れるからと言って、パーフェクトには成型できるものではない。結局はその残された工程は手鉋での切削が良いに決まっている。
これはしかし座刳りという特殊な加工工程だけに言えることではなく、切削加工一般に敷衍できるものだと思う。
少し噛み砕いて話してみよう。

木工に限らず、ある目的に達するまでのプロセスは決して単一の定められたルートではなく、複数の道筋があるというのが世の習い。
木材切削においても同様で、様々な機械、道具を用い、いくつかの手法を動員して目的とする形状、平滑面へと作業を進める。
同一の目的に達することができるならば、その手法は問わないというわけだ。
しかし物事はそう単純なものではない。
そこには合理的手法であるかどうか、あえて言い換えれば生産性があるかどうか、ということが問われてくるのは言うまでもない。生業としての木工ということになればこうした考えは避けて通れない。
それらは恐らくは時代に規定された生産様式に準じるものとなるだろう。産業革命以前ではもっぱら手業に限定されざるを得なかっただろうし、現在ではNCルーターに取って代わられてきているというのが一般的な理解だ。
何も資本主義社会だから生産性が問われている、というものではなく、人間社会の発展、歴史というものはそういうものだから。
したがって木工においても、その時代の生産様式に規定された生産システムの恩恵に与れば良いだろうし、またそうあらねば他のものに取って代わられてしまうだけのこと。
こうした基本的な考察は、しかし残念ながら木工という工芸的ニュアンスから解き放たれない特異な分野においては、一面的な定義づけにしかならないことは既におわかりだろうと思う。
木工とは残念ながら他の何物でもなく、自然有機素材としての樹木を素材とし、その固有の物理的特性、テクスチャー、美質などへの人間社会との関係性、つまりは樹木と人間生活の切っても切り離せない古来からの繋がりの中から育まれてきた思い入れというものから逃れることができないという問題に、突き当たってしまうということを考えなくてはならない。
人は木工というものが持つ固有の美質、力、文化、総じてその魅力を既に心身の基底部のところに深く納めてしまっている。
遠目にはリアルな自然木からできた壁面と思えるものも、近づいてみれば良くできたプリントだったりすることは良くあることだが、これには拒否反応とまでいかなくとも、騙されちゃったな、と思ったりすることになる。
あるいは美しい椅子をながめ、その美しさは造形、デザイン的処理によってもたらされたものであるとともに、樹木で作られたものであるが故の美的評価も少なからずポイントを嵩上げすることに寄与していることを知る。
この樹種はミズナラというものらしいが、ウォールナットであればどんな風なのだろう、と想像を掻き立てたりすることにもなる。
ふと座板に手をやり、その指の感触が手鉋の切削の痕跡を見つけ、ついほくそ笑んだりするということもあるだろう。
木工とはこのように、人の感性の深い部分において“在る”ものと言えるのではないのだろうか。
やや散漫になってしまった嫌いがあるが、板の削り、特に困難とされる座刳りもまたそのようなものとして考えたい。

整理すれば……、
目的とする形状への切削というものは、合目的に、つまり無駄な手法を取らずに、合理的に、生産性を高める意識を持ち、それに叶った手法を取ること。
そして、他の何物でもない木材を素材とした工芸的要素を孕むモノヅクリであれば、それにふさわしい結果をもたらす手法を選択すべきであろう。
恐らくはその結果として、手鉋というものがそれに叶った道具であったということに帰結するにすぎないのではないか。
手鉋とは台鉋に属するもので、その台の形状により作業者が目的とする切削面を獲得することが容易なすばらしい道具だ。
ところがこの手鉋に代替すると思われるサンディングマシーンなどの切削機械は、一般には台鉋と比し、生産性は圧倒的に高く、疲れを知らないというマシンだが、根本的に異なることとして、手鉋の“台”に相当するものがない。つまり一定の形状を作り上げることに不向きである。
あるいは、手鉋は木材という植物繊維で構成された細胞を切削するのにとても有力な刃物だということは知っての通り。
サンダーは所詮サンダー。繊維細胞をシャープにカットするのではなく削り砂で強引に潰していく。この違いは切削肌のテクスチャーとして見事に結果する。
塗装をしてみればその違いは歴然とするだろう。
あるいは生産力を考えても、決して手鉋が機械に圧倒されてしまうほどには非力ではない。
この時代にあえて手鉋を用いるということは、相応の生産性もあるからなのだ。
ただここには条件を付けておかねばならなかった。
手鉋の習熟は簡単ではない。平鉋それ自身の習得も相応の年月の修行が必要とされるが、座刳りに何丁も動員される四方反鉋の仕込みなどはより困難である。
したがって上述した考え方というのは、一般の趣味としての木工、アマチュアの方々には適合しないものであるのかも知れない。
現在のように結果がいち早く求められるような時代に、まず鉋の修行をしてからにしましょう、などということはできようもない。
サンダーであろうが、何であろうが、手鉋に依らずして一定の成果をもたらし、自己充実することも可能。
しかし一方、職業としての木工職人としては、生産性を上げ、かつ木材固有のテクスチャーを引き出すために手鉋へと向かうのがより合理的なわけだが、そうしたある種の愚直なアプローチに耐え、高い志を胸に秘めた日々の活動の中からこそ、シージュフォスのように力の漲った上腕と堅固な職業的思考が鍛えられていくのだろう。
木工職人にお腹の出っ張った人がいない理由もこれでお分かりだろう。 ?!
今日のタイトル「鉋依存はドグマ?」は、決してそうではないことは理解していただけるだろうか。
ヤワな人は向かない仕事だ。
画像にあるように1枚の座板を削り出すには、大小さまざまな鉋(反台、四方反、南京鉋 など)が必要。